2016年5月23日月曜日

【コラム】殺しを正当化するという殺戮の呪縛から逃れられないビデオゲーム達



現在、誰も殺さなくて良いという触れ込みのゲームを遊んでいる。
そのゲームは全員殺しても良いし、程々に殺しても良い。
或いは不殺を貫き通しても良い。

そのゲームはどれだけ敵を殺したかでシナリオ・エンディングが大きく分岐する。
開発が想定しているルートとしては程々に殺してクリアするのが最初だ。
そのルートをクリアすると謎は殆ど解けずにすっきりしない終わり方を迎える。
次にゲームのキャラクターが、
「大団円を迎えたいのであれば、次のプレイでは是非不殺を貫き通してみよう」
とプレイヤーに訴えかけてくる。

勿論プレイヤーはそれまでの展開を見ていると不殺を貫き通すだろう。
そして不殺を貫き通したご褒美だろうか、殆どの謎は明かされ、
物語はこれ以上にない大団円で幕を下ろす。

だがエンドロールの後に、ゲームのキャラクターが登場してこう言う、
「全てを殺せ」 と。


そして全てのキャラクターを殺す虐殺ルートだが、
このルートでは不殺ルートで増えた、新たな謎への回答や、
物語の根幹に値する話…、つまりは不殺ルートのお話の続きを描く。

一見そのゲームはマルチエンディングシステムを採用しているように見えているが、
実際はマルチエンディングではなく、完全な地続きのシナリオになっている、
とするとプレイヤーは否が応でも、お話の続きを見てみたくなる。

仮に不殺ルートで大団円を迎えて、嫌ならそこで終わればいいといわれようが、
続きを描いている以上、開発は殺さなくていいゲームで殺しを強要しているのだ。

そう、不殺を謳うこのゲームも、ビデオゲームが雁字搦めになっている。
殺戮の呪縛からは逃れられなかったのだ。

常日頃からビデオゲームという媒体は、殺戮と切り離せないと思っている。
尚パズルゲームや、恋愛アドベンチャーなどの、
戦闘という行為が存在しないジャンルはここでは扱わないものとす。

殺しを行うのは一般人からすれば気分を害するだろう。
だからこそビデオゲームは殺しの正当化を行う。

それこそ初期のゲーム、インベーダーゲームもそうだ。
画面から得られる情報は侵略してくる宇宙人に対して、それを迎撃する機体。
そう、おそらく連想するのは防衛、正当防衛だ。
正当防衛という大義名分を振りかざしプレイヤーは虐殺を行う。


正当防衛という名の大義名分

アクションゲーム、シューティング、RPG…
様々なジャンルのゲームに戦闘が組み込まれてる、
ゲームがどんどん進化していくに連れて戦闘に重きを行くようになる。
昔の簡素なアーケードライクなゲームと違い、
今では様々なジャンルのゲームが、きちんとしたシナリオを用意してプレイヤーを楽しませる。

しかしどんな内容だろうとそのお話の内容は殺しを正当化する為の言い訳に過ぎない。

RPGであれば(とてもアナログ的だが)、
悪さをする魔王が現れたので、その部下と魔王本人を殺しに行く。

シューターであれば敵国が攻めてきた・或いは核戦争を引き起こそうとしている。
プレイヤーはそれを止める為に、敵を撃ち殺していく等。



プレイヤー側が正義だろうが悪だろうが、それは全てゲームの中の、
デジタルな殺人を行いを正当化する為の理由に過ぎない。
それ自体が悪いと言うわけではなく、
実際そうする事でプレイヤーは殺しに抵抗がなくなり、ゲームの中で英雄になる事が出来る。

Wolfenstein:New Orderでは、敵国であるナチスドイツが味方兵を捕らえて、
人体実験 ・拷問を行い、それを目の前でまじまじと見せつけ、
更には戦いとは無縁の一般人すらも虐殺するさまを見せつけられ、
プレイヤーの復讐心を煽り・殺しの抵抗をなくす事に成功している、
実際、とてもよく出来ていた導入である。


惨殺されていく仲間を見るのは酷く辛い

しかしどこまで行っても、殺戮の正当化なのだ。

そして中には殺しに対して、懐疑的になっているゲームも登場し始める。
それが今回の冒頭で触れたゲームでもある。

殺しに懐疑的になったゲームの中でも個人的な傑作を紹介する。

まずは以前のBlogでも取り上げたHotline Miami
想像力が掻き立てられる良い意味で、荒いグラフィックから繰り出される。
とてつもなくゴアなバイオレンス表現。
アーケードライクなこのゲームの目標は非常にシンプルで、
ステージに居る敵を全員殺すだけ。



プレイ中はノリノリのBGMで、敵を虐殺していくのだが、
クリアするとノリノリのBGMは鳴り止み、
血しぶきや死体が辺り一面に散らばる屠殺場と化したステージを、
プレイヤーにただ冷静に眺めさせる機会があり、
そこで自分がどれほどの事をやったかを思い知らさせる。

そしてゲームキャラクターが一つの問いをしてくる。
「お前は何故他人を傷つける?」
「他人を傷つけるのは楽しいか?」と
 それでもプレイヤー・プレイキャラは、何も言わずにただ殺しを続ける、
作中ではその回答は出ないがクリアした人には、その答えは出ているだろう。



殺しに対して否定的なシナリオだが、陳腐な終わりを迎えずに、
ゲーム側ではなくプレイヤー自身が、殺しの正当化を行うという逆転の発想は天才の一言。

また続編である2では、様々な悲劇を自らの手で起こった・起こしてきたのに、
それでも殺しを続けるプレイヤーに対して、一種の侮辱とも言える行為が行われ、
それもまた殺しに懐疑的になった、Hotline Miami最大の皮肉でもあり、
殺し・暴力の否定が描かれる事となる。

次はSpec Ops:The Line
こちらも以前何度かBlogでもタイトルには触れていた。
内容としては言ってしまえば、平凡なカバーアクションTPSだ。
だがあまりの出来(勿論良い意味で)のシナリオで、とても有名になった怪物タイトルだ。

行方不明の仲間を探し・救出するのが主人公達だが、
救助しにきたのに現地の人間とも敵対し、殺すこととなり、
また同じ同胞のアメリカ人とも殺しあう事となり、
作中のキャラクターも救助しに来たのに殺している、こんなのはおかしいと。
殺し自体に懐疑的になっていく。

それでも主人公達は意志を固め、救助する為に殺していくという矛盾じみた行為を行う。
だがその結果、プレイヤーは最悪の事態を目撃してしまう。


 その犠牲は、あまりに、あまりにも…


操作キャラクターはその最悪の事態を受け止め、ひたすら逃避を行う事となる。

英雄になる為に殺してきたプレイヤーが英雄になった瞬間、
殺しに懐疑的なゲームから、英雄になった事を皮肉られてしまう。
最終的にキャラクターは、
自分の最悪の事態という殺しを正当化する為に殺すという逃避行を行い、
自分を英雄として昇華しようとする。
しかしそれすらも皮肉として機能しているのだった。


このゲームは、当時蔓延していた殺しを正当化する、
アメリカバンザイシューターのアンチの役目を担っていた。
しかし、このゲームはどこまで逃げても結局殺し続けるしかない。
皮肉のつもりが、自分自身すらもその皮肉の一部となっていた。
だがそのゲーム構造すらも、シナリオに組み込み、
殺しに対して懐疑的になっていたのに、殺しを続けたプレイヤーを陥れる。
殺しを正当化しようとするプレイヤーを否定したという希少なタイトルだ。

…今も新しい戦闘を行うゲームは増え続けている。
だが、その殆どが殺しを正当化する言い訳を続けており、
まれに殺しに懐疑的になるゲームが出ても、
懐疑的になるだけで完全にビデオゲーム=殺戮という方程式を否定する事は出来ない。

どれだけ言い訳しようが、殺しは殺しであり、
どこまで行っても殺したという事実は残る。
ビデオゲームは、最初期にかかってしまった殺戮の呪縛からは逃れられないのだ。


…いや、一つだけ否定したタイトルがあった。
そのタイトルはFPSで、戦闘も存在する。
だが誰も死なずに殺さない、ハッピーエンドを迎えるシューターが存在する。

そのタイトルの名前は…


パズルFPSというジャンルのこのゲームでは、
ラストに簡易的だがボス戦が存在する、戦闘が存在するのだ。
ボスもそうだが、ステージもプレイヤーを殺そうとしている。
 だがプレイヤーは、そんなボス戦でも誰も殺さなかった。(まあタレット君とかは壊れているが)



物語の黒幕とも言える存在も死なず、誰も殺さず・死なずに物語を終える。
この手の観点ではあまり注目されないPortalだが、
もし開発元のValveが殺戮を否定してデザインしたゲームであれば、
やはりValveは天才集団ということになるだろう。

もしかすると、いつかの明日では、
ビデオゲームが殺戮の呪縛から開放されるかもしれない。

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